貴重な出会い
当時、とあるSNSが流行っていました。
もちろん私もアカウントをもっていて活用してました。
だんだん活用頻度が減ってはきていたものの
そこでは共通の趣味同士でグルーピングができて、それなりに活気がありました。
ネット回遊していた私はここで、あるグループの掲示板に、ん?って思う書き込みをみつけました。
そしてすごく悩んだけど思い切って、メッセージを送ってみたのです。
初めての返信は当たり障りのない返事だったので、もうこれ以上はないかな?
と思っていたのですが、そのあとから私たちはずーっとメッセージのやりとりを行うようになりました。
この方は私とほぼ同じ時期に、同じ形で同じ関係の方をなくしている方でした。
やりとりを行う中でお互いのこと、どうしてこういったことになったのかということ、
それぞれの彼にたいする思い・・・etc。
こればかりはやはり、同じ経験者でしか分かり合えないと彼女とやりとりするなかで、ひしひしと感じていました。
とはいえ、それでも全てが完全にマッチするわけではありません。
特に私と彼女との大きな違いは、それぞれの彼のご家族の対応が正反対だったのです。
私は法事も形見分けもさせていただきましたが、彼女の場合は形見分けをさせてもらえず、彼の家族から出てくる言葉も私とは正反対の言葉をかけられていたのです。
同じ時期、同じ事象、同じ関係性、同じ「最愛の人の死」なのに
彼女から出てくる言葉の一部には、私が励ましたほど全くもって正反対でした。
私はこの時、理解しました。
言葉としては「死」とカテゴライズされても、人それぞれの人生同じものがないのと一緒で「死」にも同じものはないんだなと。
人生そんなに長く生きている方ではありませんので、当時の年齢でこういった事を体感するとは思ってもみなかったというのが本音です。
また「自ら・・・」というカテゴリであったとしても、旅立った方との関係性によって、本当に受け止め方や気持ちの処理の仕方が違うというのも彼女以外からも実感しました。
なので、彼女とはネットワーク上の関係性ではありましたが
ほとんど同じ気持ちを大いに「共有」しあえた事はすごくありがたいことでした。
夜中にやるせない気持ちを送り合ったり、もらった言葉にPCの前で号泣したり。
今でこそですが、あんな時もあったなとようやくこの記事を書いてて初めて思いました。
あー私ちゃんと前に進めてるんだな。。。(実感中)
また自分のタイミングでそのメッセをみれるというのも、私にとっては好都合でした。
通知は来るものの、そのSNSにログインしないと見れなかったので。
彼女はどう思っていたかは分かりませんが、私としてはお互いにいい意味での「はけ口」になれていたと思います。そしてちゃんとお互いに受け止めあえる関係だったと思います。でもこれは相手のことを必要以上に知らないからこそできたことなのかもしれません。
その彼女とはおおよそ3年ほどやりとりをやったと思います。
話していくなかで、「いつか会おうね」と言っていましたが実現はしていません。
こういう場合は会わない方がいいのかもしれませんね。
最後のやりとりは私の決意表明的なメッセで終わったと思います。
時間が経過していくなかで「このままではいけない」と思う時を私は迎えました。
その時にお空の彼へのその時の気持ち、自分の今後の人生について、そして何よりも自分の幸せは自分で築いていくと決めたよという内容を送ったのが最後だったと思います。
今でも時々、彼女はどうしてるのかなと、ふと思い出す事もありますが、きっと彼女のことだから彼女のペースで力強く進んでくれてると思います。
当時のズタボロの私を支えてくれたうちの一人である、顔も知らない会ったこともない彼女。
私は本当に感謝しています。
またネットというインフラが普及した時代だからこそ出会い、支え合えたこと。
もちろんこんな経験はしなくてもいいことだけれども、その中でも恵まれた環境であったことに変わりはありません。
これも自分の心が望むままに、行動した結果だと思います。
どうかこれを読んでる方も、自分の気持ちに従って行動してみてください。
きっと何かのフックが見つかると思います。